赤塩焼を生産工程から確立させ、製品化したら
まずは地元の人に使ってもらいたい。
江戸時代後期、文久3(1863)年から60年間ほど飯綱町赤塩で焼かれていた焼物・赤塩焼。学生時代に陶芸を学んだ地域おこし協力隊の富高俊一さんは、町からその生産方法の復活を託されている。
伝統復活の担い手として
江戸時代後期に飯綱町赤塩で作られていた赤塩焼。資料が少なく定義付けが難しいなかで、土作りを含むすべての生産の再現を任されているのが、地域おこし協力隊の富高さんだ。地元・大阪で陶芸を学び、新聞で赤塩焼を復活させる地域おこし協力隊の募集広告を見つけたことで3年間の任期を開始させた。
「実は広告を見るまで赤塩焼のことは全く知らなかったんです。ネット検索をしても情報がヒットせず、現代でそんなことがあるのかと(笑)。地元でも知る人は少なく、いいづな歴史ふれあい館の小柳館長にいろいろと教えてもらいました」
こうして得た情報をもとに、今は山から採った土を粘土にするために配合比率を調べたり、釉薬※を調合するための材料に飯綱ならではのりんごの木の灰や藁灰、鉱物の長石や鉄などを混ぜて独自の釉薬を作るテストをしている富高さん。土は風雨にさらして焼成時のひび割れや歪みの原因となるアルカリ分を抜き、砕いた後は何度も篩にかけ細かい土にしている。灰も同様に水でアクを抜き、ふるった後は時間をかけてすり鉢で混ぜ釉薬にする。そして、調合比率を変えた100種類もの試作を作り、完成度を試すという。
「今はずっと下地作りです。土が基本ですが、釉薬も手を抜いたら終わり。作業は時間がかかって大変ですが、手応えはありますね」
また、来年度の三水第二小学校閉校に合わせ、生徒たちに赤塩焼の記念品作りも教えている富高さん。それが今のやりがいになっている。
町に骨を埋める覚悟で
生産工程を確立したら、いずれは製品化するのが富高さんの目標だ。
「製品化したら、まずは地元の人に使ってもらいたいですね。そのためにも3年の任期は短いし、仮に3年で形ができても、事業の継続者がいなかったら結局は途絶えてしまう。だから、任期終了後も僕が続けたいんです。だって、この町に骨を埋める覚悟で移住しましたから」
時代とともに消えゆく伝統工芸は多々あるが、現代の価値観に合うものに形を変え、改めて評価されることもある。そうしたつくり手の姿勢にこそ、地域の「らしさ」が宿るのではないだろうか。赤塩焼復活の道は始まったばかりだ。
PROFILE
大阪府出身、1987年生まれ。府内の大学に進学し、建築学部ものづくりコースで、木工、メタルワーク、陶芸を勉強。大学院に進み、さらに陶芸の知識と技術を深めた。2011年修了後はフリーターをしながら陶芸での就職先を探し、2016年8月、飯綱町地域おこし協力隊の赤塩焼復活プロジェクト事業に採用された。