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音楽の力で心に活力を! 元校長先生で住職のサックス演奏者 久遠峯志さん

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あるときは高原レストランのイベントで、またあるときは若者たちが集まるキャンプ場で、そしてまたあるときは、昔ながらの集落の倉庫コンサートで……。その人がサクソフォンに息を吹き込んだ瞬間、会場の雰囲気が変わり、心が揺さぶられます。
ジャズの名曲からはじまり、子どもが好きな楽曲、懐かしい唱歌、リクエストに応えて歌謡曲。その場のお客さんが楽しめるようにと選んだ音色が、黄金色の楽器から輪が広がるかのように飛び出していきます。

サックスを吹くのは久遠峯志(ひさとお みねし)さん。飯綱町普光寺のお寺・阿弥陀寺のご住職であり、元校長先生という、異色の経歴を持った演奏者です。

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お寺の跡取りではありますが、両親から「自分の好きなことをしていいよ」と言われて育ったという久遠さん。高校時代にジャズファンの友人がサックスを始めたのに影響されて、ジャズが好きになったそう。当時はレコードでジャズ音楽を楽しむことが中心でしたが、大学生になると軽音サークルに入部。1年の夏に、親からお金を借りて初めてのサックスを買いました。

「サックスがあるのがうれしくて、夜中に起きて触ったりしましたね。サークルの先輩からのアドバイスで、最初からいいものを買いました。このフランス製のセルマーは、今でも現役で吹いているので、もう長い相棒です」

京都の大学に進学したのは1969年のこと。当時は安保闘争の学生運動が全盛期で、久遠さんの大学も例外ではありませんでした。講義はほぼ行われず、久遠さんはサークルでの音楽活動とアルバイトをしながら過ごしていました。

「ジャズはアフリカ系アメリカ人のコミュニティから生まれた音楽で、人種差別に苦しんできた彼らのソウルの叫びが根底にあります。僕も、暴力ではなく音楽で平和を伝えたいという気持ちでした」

毎日サックスを吹いているうちに、大学2年の頃には「ある程度は吹けるようになった」という久遠さん。特技を活かしてアルバイトをしようと、ナイトクラブでの仕事を始めました。5人のグループで生演奏を披露し、お客さんたちは曲に合わせてダンスフロアで踊ります。

「そのうち選曲も任されるようになってね。スローな曲をやったから、次はテンポが早い曲にしようとか、お客さんの盛り上げ方がわかってきました。音楽としても勉強になったし、アルバイト代で親への借金も返せた。好きなことをしてお金が入るなんて、こんなにいいことはないなと思っていましたよ」

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しばらくすると学生運動も収まり、勉強にも精を出すようになりましたが、ナイトクラブの演奏の仕事は続けていました。仏教系の学部だったので、周りには久遠さんと同じように寺の息子が多くいましたが、卒業後にバンドマンになる人も少なくなかったそう。久遠さんも、京都でバンドマンの道へ進みたいと考えていましたが、たまたま受けた健康診断でその希望は打ち砕かれてしまいます。

「レントゲンで胸に影が見つかり、結核と診断されたんです。バンドマンとしてやっていこうと思っていた矢先だったから、深い挫折を味わいましたよ。医者からは『長野は空気が良いから帰って少し休んだら』と言われ、休学して帰省。今の東長野病院に入院しました。好きなことができないのがとてもこたえて、涙を流しながら布団をかぶっていましたよ」

当初は「夢が絶たれたショックで何も手につかなかった」という久遠さん。しかし、病院には養護学校が隣接しており、そこに通う子どもたちと接しているうちに、新たな道が見えてきました。

「8か月の入院生活の間に、養護学校の子どもたちに勉強を教えたりしました。それが楽しくて、教員をやろうかなと思うようになったんです」

1年の休学を経て復学し、卒業後は教職の単位を取るために聴講生として大学に残ることを決意。それから1年後、中学と高校の国語の教員資格を取得し、教育実習は母校である飯綱中学校と三水第一小学校で行いました。

「小学校での教育実習の初日に音楽会があったんです。そこで子どもの歌声を聞いていたら、なんだか胸が一杯になって、涙が出てきた。そして、小学校で教えたいと強く思ったんです。小学校なら音楽も教えられる。そこで通信教育で小学校の資格を取り直し、小学校教諭となりました」

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初任地は松本市の学校に配属となりました。学校の行事でサックスを演奏したり、休みの日にはジャズ喫茶に通ったり、コンサートを聞きに行ったり……。音楽のまち・松本は、ジャズを楽しむのにもうってつけでした。ビアガーデンに行ったらたまたまバンドが来ていて、演者たちと意気投合し、飛び入りで一緒に演奏したこともあったそうです。

1982年に長野市の学校に着任すると、ジャズバンド「Hot Blizzard Jazz Orchestra」のメンバーに加わりました。Hot Blizzardは1976年設立の老舗バンドで、長野市を中心に活動している市民楽団。久遠さんは以前から、「長野市に赴任したらHot Blizzardに入ろう」と決めていたそうです。

「その後、塩尻や上田、富士見で単身赴任したけれど、金曜の夜に飯綱町の自宅に帰るがてらHot Blizzardの練習に加わり、月曜の朝に赴任地に帰るということもしていました(笑)。富士見町にいたときは地元のバンドにも入っていたので、とにかく忙しかったですね(笑)」

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久遠さんの教員生活は、三水第一小学校の校長先生で締めくくられました。定年で教職を退いてからは、町内外でのイベントや結婚パーティなどで演奏してほしいと声をかけられることが増え、ときにはビッグバンドの一員として、ときには少人数の仲間たちと、ときにはひとりで、サックスの演奏をするようになりました。住職を務める阿弥陀寺にも簡易的な音響設備を取り付けて、法話の際にリクエストがあれば演奏もしています。

「音楽は高齢者の生きがいにもなるんです。フレイル(加齢により心身が衰えた状態)予防には、活力を高めるのがいいと言われているでしょう。僕は、音楽にはその力があると思っています。だから自治会でやっている『お茶のみサロン』やデイサービスで、仏教の法話や講演と演奏を組み合わせて聴いていただくボランティア活動を続けています」

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演奏だけではなく、楽器を教える活動もしています。飯綱町のカルチャースクールであるいいづな教室のほか、個人的にも教室を受け持ち、それぞれの受講者が「ずっとやってみたかった」という楽器を始める手助けをしているのです。

「ハーモニカでもサックスでも、楽器はなんだっていい。新しいことを始めるのって、脳にすごくいいんですよ。今までやったことがないことをやってみると、心がウキウキしてくるでしょう。それが活力なんです。音楽を通して、活力を高めるお手伝いができればと思っています」

クールな佇まいの内側に、熱い情熱を持った久遠さん。自身も「小型重機の免許を取って、必要なときには災害復旧ボランティアに参加したい」と、新しいチャレンジを計画しているそうです。

まちのどこかで久遠さんの演奏に遭遇したら、ぜひとも腰を据えてその音色に耳を傾けてみてください。思いを込めて奏でる音楽は、聴いた人の心にもきっと、「活力」という小さな火を灯すことでしょう。

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