【予祝(よしゅく):あらかじめ祝うこと。前祝い。】(広辞苑無料検索より)
「お米がたくさんとれるといいな」「みんな健康で過ごせるといいな」
そんな思いも、未来の夢が叶うことを前提にお祝いしてしまう。まだ何も起こってはいないけれど、先に喜んでおけば後から願いが引き寄せられる……。
「どんど焼き」は、予祝の行事なのだそう。町内では今年は1月10日に実施する地区が多かったようです。
写真は、飯綱町普光寺西部中組のどんど焼きの様子です。水田に、「じいさん」「ばあさん」と呼ばれる二体の道祖神を木と藁などで作り、お正月に飾った門松やお札、ダルマなどをくくり付け、間には縄を張ります。
じいさんとばあさんは、雪が降る前に「道祖神ものづくり」として山から木を切り出して組み立てます。その後、どんど焼きの日までブルーシートに覆われて保存されます。そして、どんど焼きの前日や、当日の朝に飾り付けられるのです。
夕方、カランカランとどんど焼きを知らせる鐘の音が響いて近所の人が集まりました。
藁の数カ所に点火すると直ぐに火が広がっていきます。
豪快に燃え上がる炎、時折バチンとダルマが弾ける音。
お祭り気分でテンションが上がった子どもたちは、畦の段差で尻滑りをして遊んでいます。小、中学生は書初めを持ってきていました。どんど焼きの火で燃やし、火のついた紙が空高く燃え上がると、字が上手になると言われています。
炎が落ち着くと、炭火の上で持ち寄ったお餅を焼きます。網の上にホイルで包んだお餅が並んでいます。ホイルにくっつかないようにバターを塗ってあったり、クッキングシートと重ねてあったりと各家庭で工夫がされていました。
参加した方は「子どもの字が上手になりますようにと願いを込めて焚きました。コロナも吹き飛ぶといいですね」「中止した所もあったそうなので実施できて良かったです」と話してくれました。
この日の日中に町内を散歩すると、数百メートルおきに道祖神を見かけます。牟礼地区では、「どうろく(道陸)神どんど焼き」と呼ばれます。その形態も実はさまざまで、「じいさん」「ばあさん」のほかに「まご」もいて、三体作る地区もあるようです。
なんと、その詳細を研究した人がいました。2000年に発行された「信越国境小史 鳥居川のほとり」(矢野恒雄 著/ほおずき書籍)には、牟礼地区、三水地区それぞれのどうろく神の材料、作る場所や形、焼く物が表にまとめられています。興味がわいた方は、ぜひ読んでみてください。
飯綱町で歴史を学びたいときはここへGO!「いいづな歴史ふれあい館」です。学芸員の小山丈夫さんに伺いました。
「以前は小正月の1月15日にどんど焼きが行われ、前日の14日に、もめん玉などのものづくりをしました」(小山さん)
全国的には「まゆ玉飾り」と呼ばれていますが、飯綱町では最中の皮でできた丸いあの飾りも、名称は「もめん玉」です。
その昔、千曲川沿いで広く木綿と菜の花が栽培され、善光寺木綿が特産品とされていたころ、飯綱町では綿花の栽培ができず、綿花を買ってきて糸紡ぎと機織りをすることが大事な冬仕事でした。明治以降、木綿産業は衰退し養蚕が盛んになりますが、豊作を祈念した予祝行事として、呼称は「もめん玉」のまま残ったようです。木綿がこの土地の人にとって、いかに大切なものであったかが伝わってきますね。
「ほかにも、14日には道祖神人形や小さな農具が作られました。この人形はどんど焼きでは焚きません。神棚とは別のえびす棚に飾り、古いものは地域の祠に納めます。今でも芋川や倉井に人形が納められている祠がありますよ」
写真は、歴史ふれあい館のワークショップで作られた道祖神人形です。
集落の守り神である道祖神、道陸神をお祀りするためのさまざまな「ものづくり」なのですね。
また、どんど焼きが終わると、「小豆焼き」という占いの行事が行われたそうです。熱した小皿に小豆を2粒転がして、その跳ね方、転がり方で作物の出来や人々の運気を占うのだそう。この時ばかりは子どもたちも夜更かしが許されて、皆で盛り上がったようです。
飯綱町が誕生して以来、14年にわたって町の広報誌に連載された「まんが飯綱今昔物語」。この原作を書いたのは小山学芸員です。全173話のうち、連載物116話が書籍にまとめられました。町内の小中高校では、歴史資料として授業でも使われる予定です。
残念ながらこの本には収録されていませんが、170話「今年を占う・小豆焼き行事」(令和2年1月 第170号参照)にどんど焼きや小豆焼きの様子が描かれています。
また、箱膳体験と一緒に行われた小豆焼き体験の様子はこちらでご覧いただけます。
皆様に幸多き一年となりますように、心からお祈りいたします。