北国街道は、佐渡から江戸に金銀を運ぶ「御金荷街道(おかねにかいどう)」、加賀前田候など諸大名の参勤交代の行列が通ったことから「加賀街道」、さらに善光寺参詣の「善光寺道」など、その目的に合わせていくつもの呼び名があり、当時の主要道であったことがわかります。
武州(江戸)までには、複数の難所があったようですが、しなの鉄道と国道18号が交差するあたりから信濃町へと続く先にある小玉坂は、加賀と江戸を結ぶ街道の中でも碓氷峠に次ぐ難所であった、といわれています。あの急坂は、殿様も駕(かご)を下りて歩かれたのでしょうか。
江戸時代の慶長16(1611)年ごろに宿場制度が整い、寛永12(1635)年には参勤交代制度が定められたことから、加賀藩や北陸諸藩の参勤交代、善光寺参りの旅人の往来で賑わいました。
加賀前田藩の参勤交代は、総勢3,500から4,000人の大行列であったといわれています。
また、江戸時代中期には、この小玉地区に鎌鍛冶が導入され、以来、鍛冶屋さんが多数操業していました。その工房の一つが、いいづな歴史ふれあい館の傍に再現され、今も体験工房として活躍しています。
明治になって、北国街道は国道になり、大正8年には道路法制定によって国道11号になりました。
そして昭和7年、難所の小玉坂を避け、新たな国道が古町を経て芹沢を通るルートに変わり、昭和27年には政令で国道18号となっています。古道はそのときから中郷村道になりました。
国道18号が開通した記念にと、小玉地区の鍛冶屋さんたちが国道沿いにサクラを植えたのですが、その後の国道拡幅工事のたびに、このサクラが伐採されていきました。歩道設置工事後には、わずか数本しか残っておらず、それも周囲に繁茂したクルミや雑木、雑草に痛められ、枯死寸前の状態になっていました。
見かねた鎌鍛冶仲間の皆さんが、このサクラを守ろうと立ち上がり、世話をするようになったことで瀕死のサクラが復活し、今も春には、登坂車線が始まる先の左側に古木のサクラが見事に花をつけています。
一方で、国道の役割を終えた北国街道は、農作業や山仕事以外はほとんど通る人もなくなり、沿線の農地や山林、街道も荒れていってしまいました。これを見かね、「このままではいけない」と、サクラを守る皆さんが中心となって「小玉こどう会」が生まれたのです。この会は、小玉の古道や北国街道を守って整備し後世に残すこと、さらには会員相互の親睦を目的に、行政などの援助に頼らず、草刈りや倒木処理など、できる範囲の活動を年間を通じて行っています。
道のほとんどは、平安時代から変わっていないという説もある歴史ある古道。参勤交代制度が始まって拡幅改良が行われ、明治天皇が北陸地方を視察する際にも利用されました。この視察で小休止のために野点が行われた「御野立所跡」、「小玉一里塚跡」など、往時を偲ばせる場所が随所に残されています。岩倉具視、大山巌、山岡鉄舟もお茶で一服したのでしょうか。
明治維新の頃には、高杉晋作も通ったとされています。小玉坂の南、三本松で父と別れた、という伝承がありますから、16歳で江戸に奉公に出た俳人小林一茶も、この道歩いたのかもしれません。
この静寂な古道に立つとき、いったいどれくらいの数の人々が、どんな思いで通ったのだろうと思いを馳せます。古(いにしえ)の人々の思いが、今もこの古道に残されている……そんなスポットです。
信濃町の落影集落から小玉坂までは、一般社団法人日本ウォーキング協会の「美しい日本の歩きたくなる道500選」で長野県内12のルートの一つに選ばれています。平成15年に行われた国土交通省(関東地方整備局長野国道事務所)主催の北国街道ウォーキングでは、信濃町の柏原から善光寺までのルートが最終日の行程に選ばれ、200人近い参加者がこの道を歩いて好評を博しました。小玉こどう会の会員宅前の道路沿いには、ベンチや椅子、お茶が用意され、参加者にふるまわれました。
そしてこの会は、平成25年、永年の郷土環境保全事業の功績が認められ、環境省から表彰されています。
歴史の香りを感じながら、当時のままの道を歩いてみませんか。