トップライターはっさく堂さん日常に寄り添うパンと本の店 〜「朝と夕」が描く小さな渦の物語

日常に寄り添うパンと本の店 〜「朝と夕」が描く小さな渦の物語

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普光寺エリアのメイン道路から少し入った静かな小道に、パンと本のお店「朝と夕」がオープンしました。お店を営むのは、2020年に飯綱町へ移住してきた入口慎平さん・梓さんご夫妻。小さな平屋を改装した、あたたかい空気が流れるお店です。

パン部門を担当するのは、夫の慎平さん。
県内のベーカリーで2年間修行を積み、その後、会社員として飯綱町へ移り住みました。けれども、心のどこかにはずっと「いつか自分の店を持ちたい」という思いがあったそうです。そんなときに出合ったのが、コンパクトながらも機能的な間取りを備えたこの平屋の物件でした。

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本の担当は、妻の梓さん。
本屋を始めたいと思うようになったのは、軽井沢へ移住した2017年のことでした。当時、軽井沢には本屋がなく、本好きの梓さんにとってはその状況がどこか寂しく感じられたといいます。
「軽井沢には立派な図書館があって、最初は『それで十分かな』と思っていたんです。でも久しぶりに東京の本屋に入ったとき、圧倒されました。同じ本でも、借りる本と買う本では放っている熱量が全然違うんです」
自分の手で選び、所有するからこそ生まれる「本のエネルギー」。その違いを肌で感じ、「やっぱり本屋は必要だ」と改めて思ったと話します。
また、ネット書店も便利ですが、そこでは「欲しい本」を買って満足してしまいがち。けれど、リアルな本屋さんでは、想像もしていなかった「思いがけない一冊」と出合うことがあります。
「本屋さんでたまたま手に取った本が、意図せず世界を広げてくれる。そういう体験は、人が生きるうえでとても大切なんじゃないかな」

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2018年から、北軽井沢で委託販売という形で本を扱い始めました。しかし、月に一度棚を入れ替えるだけでは、お客さんとの交流は限られ、本が旅立つ瞬間に立ち会うこともほとんどありません。「やっぱり自分の店で本を売ってみたい」という気持ちは、ますます強くなっていったそうです。

「東京にいた頃は『この作家が面白いよ』『新刊出たね』なんて会話が日常でした。でも、いつの間にかそういうやりとりがなくなってしまって。だから、自分でそんな場所を作りたいと思ったんです」
その後、ご夫妻は飯綱町への移住を決意。ここにも本屋がないことを知り、「それなら自分で作ろう」と動き始めました。

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「朝と夕」の本棚には、新刊を中心に旅行、自然科学、料理、アート、カルチャーなど、幅広いジャンルの本が並びます。梓さんの選書の基準はとてもシンプルで、「自分が読みたい本」と「興味のある本」だけ。新刊はほとんどが買い切りで、返品はできません。だからこそ、「もし売れ残っても、自分で楽しめればいい」と思える本だけを仕入れているそう。なかでも力を入れているのが、10代の子どもたち向けの本です。
「まだ自分の力では行きたい場所に行けない世代ってありますよね。決められた環境で、数年間を過ごさなきゃいけない。だけど、そういうときでも「本に逃げる」という手段があるんです。私自身、そういう時期を過ごした経験があるので、いろんな世界を知れる本を揃えたいと思っています」

オープン当初は、「月に1冊か2冊売れればいい」と思っていたという梓さん。ところがいざ店を開いてみると「本屋があると聞いて来ました」というお客さんが、予想以上に訪れたといいます。本を買う目的ではなく立ち寄った人が、気になる1冊に出会い、そのまま購入していく。そんな光景も見られるようになりました。
「こんなにも本を求めている人がいるなんて」
驚きとともに喜びが込み上げたと、梓さんは語ります。

「本屋さんって、棚を眺めているだけで、自分の中で停滞していたものが動き出すような感覚があると思うんです。『ああ、そうか、こんな考え方もあるんだ』って思えたり、『これ好きだったな』『これ面白そう』って、忘れていた興味が戻ってきたり」
毎日が少しつまらないと感じている人が、世界への興味をもう一度取り戻せるように。梓さんは、そんな願いを込めて、今日も本棚を整えています。

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梓さんのお話を聞いているうちに、パンの焼けるいい香りが漂ってきました。厨房に立つ慎平さんに、今度はパンのお話を伺いましょう。
「ずっと、自分が食べたいパンを自分で作りたいと思っていたんです。飯綱町には美味しいものがたくさんあるので、こっちに来て、なおさらそう思うようになりました。でも、サラリーマンだったので、体に悪いと思っていながらも毎日コンビニ弁当ばかり食べてしまって……」

そんな日々の中で、慎平さんは「やっぱりパン屋をやりたい」と思うようになったそうです。
「『朝と夕』という店名は、茨木のり子さんの詩『小さな渦巻き』から取りました。真面目に働いていたら、きっと誰かがわかってくれる──その言葉を胸に、やっていこうと思ったんです」

小麦粉は長野県産が中心で、一部に北海道産を使用。ハード系のパンには、レーズンなどから培養した自家製酵母を使っているそうです。

「飯綱に来てから、いろいろな繋がりができました。ご近所さんやお客さんも本当にいい人たちばかりで。だからこれからも、無理のない範囲で、周りの人の声を聞きながら、自分が納得できるパンを焼いていきたい。そして、まちの人が気軽に通えるようなパン屋さんでありたいと思っています」

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慎平さんの言葉にもあった「小さな渦巻」という詩。この作品には、俳優が憧憬の表情を再現していたり、籠屋が黙々と籠を編んでいたり、医師がコツコツと統計表を埋めていたり──そんな人々の営みが静かに描かれています。どれも些細な行いですが、その積み重ねが思いもよらない場所で小さな渦を生み、やがて花を咲かせる。そういう詩だと、梓さんはいいます。

「派手じゃなくても、真摯に続けることで、誰かを優しい気持ちにできる。そんな小さな渦を作れるんだと、勇気をもらいました。残りの人生、こういう仕事の仕方をしていきたい。そう思って、店名にしたんです」

このお店では、パンと本が日常に溶け込み、暮らしのそばで静かに息づいています。
その営みは「朝と夕」という名前のとおり、この場所から小さな渦を描くように、やさしく広がっていくことでしょう。


パンと本の店「朝と夕」インスタグラム

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